幸福についての加速度的考察

投稿者: snowya 投稿日:

記事を若干修正しました(満たされているという状態を、幸福の条件から除外)。(2018.12.19)

「人はどう生きるべきなのか?」ということを昔からよく考える。
最近は付随して、
「人はどうしたら幸せに生きられるのか?」ということをちょくちょく考えている。

経済的、社会的に成功しているにも関わらず、幸せではない人がいるだろう。
他者からみれば相対的に恵まれない日常を営んでいるにも関わらず、幸せを感じる人もいるだろう。

幸福とは何か?

それに対するちょっとした見解がまとまったので、ここに記そうと思う。

<速度と加速度>

もう大分忘れてしまったが、少し物理の話をしよう。速度と加速度の違いだ。(加速度という言葉とこれまで仲良くした経験のない人は、ちょっと調べることをお勧めする。)

我々人間は、速度を直接感じることはできないが、加速度ならば感じることができる。

エレベーターが想像しやすいだろう。エレベーターが加速している時、私たちはその加速度を身体的に感じるとることができるが、ひとたび等速直線運動に移ってしまえば、その速度を全く感じとることはできない。そしてまた目的の階が近づき減速する際に、少し気持ち悪くなるような負の加速度を再び感じる。

人は、加速度を感じることはできるが、速度を感じることはできない。

加速度は速度を時間で微分したものであり、速度の時間変化率といえるので、少し言い換えれば、人は速度の変化を感じることはできるが、速度そのものを感じることができないと言える。

<速度的幸福観>

以上は、勿論物理的世界の話であるが、この枠組みが、幸福という精神世界の事象にもぴったりと当てはまるように思える。

先にも述べたように、速度というのは直接的に感じることはできない。しかし、それを間接的に感じとることはできる。比較によって。

例えば、窓を閉め切った車に乗って人気のない恐ろしく真っ直ぐな道路を走っている(簡単のため、振動が全くない車体、そして高精度の耳栓をしていると仮定してください)とする。少しスピードを上げようと思い、アクセルを踏む。加速度を感じる。アクセルを緩め、直線道路で等速直線運動に移行する。それにより、加速度による身体への刺激は消失する。速度は身体に直接刺激をもたらさないが、普通の人はそれでも車が一定の速度で進んでいることを間接的に知覚できる。景色が流れていくからだ。

動いている車と、制止している景色。この二つの比較によって自分の速度を知ることができるだろう。

では、次は何もかもが真っ白な空白の空間みたいなものを思い浮かべてみる。
ここで車を一定の速度で走らせてみても、景色が全く変わらないのでそれを感じることはおそらくできない。スピードメーターを見れば10㎞/hで走っているのか、100km/hで走っているのかは知ることができるが、その速度に対する認識に身体的感覚は全く乗ってこないだろう。

感覚が宙ぶらりんになったまま暫く走っていると、遠く前方に車が見えた。どんどん車が近づいてくる。よく見ると、車が故障して停止しているようだ。その故障車との距離が近づく速さを見て、自分がどれだけスピードを出していたかを、はじめて知る。

このような性質を帯びた幸福を、「速度的幸福」と呼ぶことにする。

それそのものとしては身体的に捉えることができないので、何かとの比較をもって自分の現状を知るのである。

例えば、恵まれない地域の現状を知ることで。例えば、自分のより年収が低い人々の暮らしを知ることで。あるいは、自身の過去の有り様を思い出すことで。

それらと自身の生活を比較することによって、幸福みたないものを感じることができる。

何かとの比較によって現状を評価する、相対的な幸せ。それが速度的幸福である。

<加速度的幸福観>

自身の過去との比較はまだしも、他者と比較することによって得られる速度的幸福は、「平等」との相性が悪い。差異があり、不均衡があるからこそ幸福を感じるとするならば、幸福を感じるためにはその不均衡が必要だ。

また、全ての人が、「他者と比較して得られる速度的幸福」としての幸福観しか持ち合わせていないとしたら、全体での幸福の総量はブラスマイナス0になるような気がしている。従って、社会全体の精神的充足を目的としたときに、この幸福感はおそらく役に立たない。

そこで、「加速度的幸福」だ。

加速度は速度と違い、絶対的に知覚することができる。

先ほどの真っ白な世界の例でいえば、車のアクセルを踏み込み、ぐぐっと前に進んでいる力を感じるような、あの感覚だろうか。

誰かと比較するわけではなく、「いま自分がどのように変化しているのか?」そんな観点から捉えられる幸福を、加速度的幸福と呼ぶことにする。

個々人が個々人の「いま」と向き合い、その瞬間の上向きの加速度に幸せを見出すことができるため、他者との優劣を競うことなく、それぞれが幸福を育んでいける。すなわち、この幸福観のもとでは、社会全体の幸福の総量はプラスマイナス0に固定されておらず、全体及び全員の幸福向上を目指すことが原理的に可能であるように思う。

その加速度的幸福を感じるために重要なことのうちの一つは、「いかに上向きの加速度を実現し、保つか」ということだろう。

この「上向きの加速度」を、何において実現するかが重要であるように思う。

改め思い起こさなければいけないのは、加速度を上向きに保つというのは、速度を持続的に上昇させるということであるという点だ。従って、加速させるべきではないものを加速させるような行いを幸福の指標として用いるのは、全体の破綻につながるだろう。

例えば経済成長にかかる加速度から幸福を感じるという行為は、もはや時代にそぐわないだろう。地球という環境の有限性をひしひしと感じる昨今、エネルギーや経済の消費・回転速度を上昇させるような加速度ではなく、もっと精神的・個人的なものにかかる加速度から幸福を感じることが重要なのではないだろうか。

それが例えば、アート的な感性かもしれないし、瞑想などの極めて精神的な領域におけるものなのかもしれないし、伝統工芸などの技術、アスリートとしての実力だったりするのかもしれない。(ここで余談だが、アスリートとしての実力のように、やがて必然的に衰えていくことが分かっている指標だけに幸福を求めるというのも、あまり良くないのかもしれない。)

加速度的幸福は、速度的幸福とは違い絶対的に知覚できるものである。

それゆえの大きな利点もありつつ、その性質上、幸福を希求するという行為が周囲にどんな影響を及ぼすのかを、俯瞰した視点からより考慮せねばならないといえる。

<存在の幸福観>

第3の幸福観として、「存在の幸福」考えたい。

加速度的幸福も悪くない。個人が覚える「成長している、向上している」との感覚から幸福を見出すという状態は、方向性を間違わなければ社会全体の向上にも寄与するし、それぞれがそれぞれの方向性で幸福を希求していける。

ただ、少ししんどいかもしれない。
アクセルを踏み加速し続けるという行為はエネルギーを要するし、速度が大きくなれば、物理的世界のように抵抗も大きくなるかもしれない。

速度も加速度も、「自分が動き続ける」という点では類似していたので、ここで、今度は少し止まってみたい。

真っ白な世界で、気が付いたら猛スピードで走っていた車を、ゆっくり減速してとめる。スピードを出して走っていた時は景色が滲み、白一色に見えていた世界だが、完全に停車してみると、極々淡い色合いがあり、ほのかな輪郭があることに気付く。

暫くたたずんでいると、最初はとても淡く見えていた色が徐々に鮮やかさを帯び、今や世界がとても彩り豊かに見える。立ち止まり、そこにある存在に意識を向けることで、世界のすばらしさを知る。

このように感じられる幸福を、存在の幸福と呼びたい。

成長や変化を追い求めすぎ、その速度のあまり、見えなかった「ここにあるもの」たち。それは、家族であったり健康であったり、動植物といった自然であったり、周囲の人々との関係性であったり。あるいは、自分が「生きている」というそれ自体であるかもしれない。

それらが「存在」しているということ自体に幸福を感じるという、存在の幸福観。

人は、生きるために働かねばならない。動かねばならない。一角の人間になるために、成長したくもあるだろう。しかし、それに囚われすぎると、「ここにある」ものが見えなくなってしまうような気がするのだ。

速度や、加速度ではなく、「存在」から感じる幸福。
これも一つの幸福ではないだろうか。

こんな風に幸せを感じることは難しいかもしれないが、もしこんな風に人々が幸福を感じることができたとしたら、何の弊害もなく社会全体の幸福度は向上するような気がしている。

ただ強いて一つあげるとすれば、成長へのモチベーションが全く湧かないかもしれない、という点がこの幸福観の欠点であるかもしれない。

「何のために成長するのか?」に対する答えが「自分が幸せに生きるため」であれば、個人の枠組みで考えた際に、成長を動機付けしないこの幸福観で完結してもよいのかもしれない。

ただ、自己満足も悪くないが、自己満足だけでは足りないという見解もあり得る。「成長して、社会の向上に寄与することが正義だ」という正義感のもとでは、目の前にある存在を愛して満たされるだけの幸福観では足りないのかもしれない。

<うつろいの幸福観>

最後に、4つ目の幸福観を考えてみたい。

一回存在を考える過程で完全に止まってみたので、もう一度動きをつけてみたい。しかし、今度は自分ではなく、周囲に、である。
周りの景色―他の車、動物、植物、季節など。自分が止まっていても、周囲は動いていく。

短い時間スケールでは、例えば、蝶々がひらひら飛んでいく、葉っぱがひらりと落ちてくる。大きな時間スケールでは、例えば、季節が移ろっていく、そして時に、誰かが死んでいく(存在の消失)。

そんな、世界の動き、いわば時間的うつろいに幸福を感じられたら。

これを、「存在」そのものではなく、「存在の時間的変化」に幸福を感じるとする「うつろいの幸福」と呼ぶことにする。

正直この幸福観とは、個人的にはまだまだお近づきにはなれていない。
図解してみると、速度軸と時間軸の二つが見えてきたので、こんな幸福もあり得るのではないかとこの4つ目は考えてみただけだ。

しかし時に、季節が移ろっていくこと、日々が過ぎ去っていくこと、世界全体として繰り返されていくこと、そんな時間の流れに愛おしさを覚えることがある。

ただ自分がそこに存在するだけで、時間は過ぎていく。世界はうつろっていく。そこに幸福を見出せる日もいつか来るのかもしれない。

なお、勿論この幸福観も、成長へのモチベーションが生まれないという性質が欠点となり得る。

<最後に>

思いつくままに、4つの幸福(観)について考えてみた。
(この分類や解釈が妥当かどうかは分からないので、何か思いついた人は随時教えていただきたい。)

「幸福」という価値が、なんとなく最近前面に押し出されているような気もするが、それが最も大切にすべきものなのかどうかも私的にはよく分からない。徳福不一致の難問という話もある。

ただ、幸福の定義の仕方や、それへのアプローチの仕方によって、色々と在り方が変わってくるというところが、個人的に最も示唆したい点であった様に思う。

また、4つの幸福観を眺めていく中で、「幸福」は主観的なものであるがゆえに、それを感じるにあたって個々人の感受性が非常に大事だということも、なんとなく見えたように思う。

文章を書く中で自分の幸福観を整理でき、自身としても、とても良かった。
私的には、加速度的幸福と存在の幸福をバランスよく大切にしながら、うつろいの幸福観を深めていきたいと思っている。

4つの幸福観のイメージ図
カテゴリー: 塾長の視点

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です